駅で切符の券売機の使い方が分からなくて困っている人がいます。
あなたは、
1.その人に切符を買ってあげますか?
2.券売機の使い方をその人に教えてあげますか?
↓
1の「その人に切符を買ってあげる」を選んだあなた、
残念ですが、あなたのせいでその人は貴重な時間をムダに捨ててしまうかもしれません。
もし本当にその人のためを思っているなら、次からはその人が自分で切符を買えるように「券売機の使い方を教えてあげる」はずです。
もし「切符を買ってあげた」なら、その人はその日はあなたの親切のおかげで予定の電車に乗れたことでしょう。
しかし次の日になったら、また切符の買い方が分からずに立ち往生してしまいます。切符の買い方を教えてくれる人がいないので、予定の電車に乗り遅れてしまいました。
このように、「してあげる」と「出来るように教えてあげる」とでは、同じ親切、同じ愛でも、全く違う結果をもたらします。
「切符を買ってあげる」よりも、「切符の買い方を教えてあげる」べきです。 いずれ日本で信仰生活を守っていかなければならない信徒を派遣する海外日本人教会なら、なおさら考えるべき当然の課題です。
キリストは、「私は道である」とピリポに言った。キリストは、「私は”動く歩道”である。そしてあなたが足を動かさなくてもいいようにしてあげよう」とは言っていないはずだ。
「洗礼も受けたし、どうせ天国にはもう行けるから。。。。。」
キリストは、天国街道を開通してくれました。
そして、 キリストは、あなたに天国への道案内はもう十分した、あなたは絶対に道に迷う心配はない、と言っています。
さぁ、あなたは自分の足で人生の風景を目に焼き付け楽しみながら歩きますか? それともまだ。。。
今わたしは、そのことが起らない先にあなたがたに語った。それは、事が起った時にあなたがたが信じるためである。わたしはもはや、あなたがたに、多くを語るまい。この世の君が来るからである。だが、彼はわたしに対して、なんの力もない。しかし、わたしが父を愛していることを世が知るように、わたしは父がお命じになったとおりのことを行うのである。立て。さあ、ここから出かけて行こう。
ヨハネの福音書14章
by Yuma Nakagawa