2013年2月13日水曜日

ロールキャベツと聖霊論


ここ数年、「草食系男子」なるものが巷に現れているのは皆さんの中にも耳にしたことがある人が多いと思います。

草食系男子というのは、「性格がおだやかで協調性に富み、恋愛や異性関係に対して執着の薄い男性。肉(肉欲)を求めないところから、草食動物になぞらえたもの。(Yahoo! 辞書より)」 

男性とは本来ライオンのように肉食動物のごとく女性にアプローチし恋を実らせようとする固定概念があることからこの言葉が生まれたのかもしれません。


だが、最近になって「ロールキャベツ系男子」なるものの存在が新たに確認された。


その生態とは、「一見草食系男子だけど、中身は肉食系男子である男性のこと。外側がキャベツ(草食)、内側が肉(肉食)であるロールキャベツの特徴を当てはめている。容姿や言動は草食系男子、ここぞというときに肉食系男子に豹変する。(はてなキーワードより)」というもの。


また、ロールキャベツ系男子とは全く正反対の生態系として、「アスパラのベーコン巻き系男子」なるものも存在するらしい。

その特徴として、「一見肉食系男子であるが、実は淡白な草食系男子である男性のこと。外側がベーコン(肉食)、内側がアスパラ(草食)であるアスパラベーコン巻きの特徴にあてはめている。見た目や印象からはがっつり肉食系男子を思わせるが、いざとなると女の子の手を握ることもできない草食系となってしまう。(はてなキーワードより)」というものらしい。


もはやここまで来ると、何がなんだか分からないのが本音である。


外側は野菜で覆われているのに切ってみたら中には肉が詰まっている。これは普段人に見せる姿と内側に秘めていることに相違がある人間になんとなく重なる気がするのは私だけだろうか。

周囲の人間に好感を持たれたいが為だけに、格好の良い服装を身に纏い、最もらしい発言を口にして、裏に隠している真の計略をめぐらす。こういう人のことを私たちはしばしば「偽善者」と呼ぶ。


私たちクリスチャンは「偽善者」と聞いてまず思い浮かべるものがあります。それは聖書の中に出てくる「パリサイ人」という人々のことです。

この人たちは、とても頭の良いエリート集団で、旧約聖書に書かれている「律法」と呼ばれるキリスト教のもとになったユダヤ教のルールや掟をとてもよく守っている人たちでした。ここまでは良いのですが、その律法を守り行うこと自体にその心が奪われ、そのルールが持つ本当のメッセージを忘れてしまったのです。

本来、律法というものは、神様がイスラエルの人々を聖なる神の国民として選び出し、イスラエルの人々がそのルールを心に留めながら生活することによって、特別な聖なる民族としての意識を持ち、自分たちを守ってくれる神様のことを思うために与えられたものなのです。

しかし、いつしかその律法を守り行う自分達の健気な姿に惚れ込み、心が高ぶり、「あの人達はいつも律法をよく守って偉いわね」という周囲の人間の声を耳にすることが快感になり、人に見せるために大きな声で祈ったり、偉い頭の良い人だと思われたくて街の人たちに高尚な律法の教えを説いたりし、いつしか神様のことが頭の中から消えていきました。

そんな勘違いをしているパリサイ人の人々をイエスキリストは次のように表現しました。

偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。はっか、いのんど、クミンなどの薬味の10分の1を宮に納めておりながら、律法の中でもっと重要な、公平とあわれみと忠実とを見のがしている。それもしなければならないが、これも見のがしてはならない。(マタイによる福音書2323) 

律法が示す通りに神殿に捧げ物をすること自体が間違っている訳ではないが、パリサイ人達が人に偉いと思われるために、そして自己満足のために神殿に捧げ物をするその態度と動機が不純であり、本来その律法を心に守ることによって知るべき神様の公平とあわれみ、そして自分たちの神様への忠実さを忘れてはいけないよ、とイエスキリストはここで言いたかったのです。

加えてイエスキリストはパリサイ人達のこのような様を次のように比喩しました。

偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。あなたがたは白く塗った墓に似ている。外側は美しく見えるが、内側は死人の骨や、あらゆる不潔なものでいっぱいである。このようにあなたがたも、外側は人に正しく見えるが、内側は偽善と不法とでいっぱいである。(マタイによる福音書2327-28) 

そう、イエスキリストが言ったように、パリサイ人の人達は外側に装っているものと内側に秘めているものに相違があり、それが「偽善者」と呼ばれるようになってしまった一番の所以なのです。


まさに、パリサイ人とはロールキャベツなのです。仮にパリサイ人をナイフで半分に切ってみたならば、外側の正しさや美しさとは裏腹に、内側は偽善と不法で満たされているのです。これは人間の間違った在り方です。


人間の内側を満たすべき正しいもの、その一つに「聖霊」があります。

なぜ、「聖霊」が内側を満たさないといけないのか。それは、単刀直入に、あなたが死なずに生きるためです。聖書も同じことを次のように説明しています。

もし、イエスを死人の中からよみがえらせたかたの御霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリスト・イエスを死人の中からよみがえらせたかたは、あなたがたの内に宿っている御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも、生かしてくださるであろう。(ローマ人への手紙810-11) 


ではどうしたら聖霊が私たちの内側を満たしてくれるのでしょう? 

その方法は一つだけです。この他に聖霊が私たちに与えられる方法はありません。それは、イエスキリストがあなたに生きてほしいと思われて十字架で死に、あなたが死なずに生きるために死から復活したことを信じることです。

あなたがたもまた、キリストにあって、真理の言葉、すなわち、あなたがたの救の福音を聞き、また、彼を信じた結果、約束された聖霊の証印をおされたのである。(エペソ人への手紙113)」聖霊はキリストを信じた結果、人間の内側に与えられるものなのです。 


しかし、そもそも、「聖霊に満たされる」ということ、礼拝メッセージや信仰書等で腐る程見られるこの表現、それが実際にどういう状況か聞かれた時、あなたは答えることが出来ますか?  

自分の内側が聖霊に満たされている、ということがどうしたら分かるでしょうか。

その人の内側から聖霊が光り輝いて見えるわけでもなく、筋肉がモリモリ沸いてくるわけでもなく、頭に天使の輪が付くわけでもありません。ロールキャベツのように半分に切って本当に聖霊が内側に入っているかを確かめることも出来ません。

聖書が書かれた時代のように、「すると、一同は聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、いろいろの他国の言葉で語り出した。(使徒行伝24)」みたいなはっきりと目に分かる現象があれば簡単なのですが、現代ではそのような光景を目にすることな中々出来ません。 


これを書いている私自身もよく分かりません。


しかし先日、自宅近くの温泉の露天風呂に浸かっているときに、その疑問に対する答えを頂いたような気がしました。

内湯から露天風呂に続く扉を開けると、2月の外の風がとても身に沁みて寒く、そそくさと湯に入りました。

数分間浸かっていると、だんだん体の内側から熱くなってきて、今度は上半身を湯の外に出しながら露天風呂に入っていました。すると、さっきまで身に沁みるほど寒かった風も、体が内側から温まっているのでしばらく体を外に出していても全く平気で、むしろ熱った体に冷たい風が気持ちいいくらいです。


この状態、実は聖霊に満たされているのと非常によく似ていると私は思います。

なぜなら、聖霊というのは人間の内側を満たし、建物の骨組みのようになり、それによって外部からの様々な圧力に押し潰される事無く、かえってそれに耐えうるように私達を助けてくれるものだからです。

わたしは命じる、御霊によって歩きなさい。そうすれば、決して肉の欲を満たすことはない。(ガラテヤ人への手紙516)」という聖書の言葉の意味は、私たちが内側で蓄えるべきエネルギーは肉欲ではなく、聖霊であるべきだということです。 


私達のどこを切っても聖霊が満たされているべきなのです。外側も聖霊で包まれているべきです。


つまり私達はロールキャベツ系でも、アスパラのベーコン巻系でもなく、聖霊系男子そして聖霊系女子になりましょう 


このように、あなたがたは悪い者であっても、自分の子供には、良い贈り物をすることを知っているとすれば、天の父はなおさら、求めて来る者に聖霊を下さらないことがあろうか。(ルカによる福音書11章13節)

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2013年2月11日月曜日

絶景をつくろう



昨年開業を向かえ、東京の一番新しい観光名所として名を馳せている東京スカイツリー。開業当初は展望台に上るために抽選に当たらなければいけない程の人気振りを見せた。 





日本一高い人工建造物から眺める景色とは一体どれほどのものなのだろう。きっと夜には息を呑むような夜景が広がるのだろう。





おそらく多くの人がその景色に感動をおぼえ、写真を撮って友人に見せてみたり、ムードが高まって恋人との距離がより近くなったり、その景色を前にして人々は色々なことをする。





しかし今、このことをよく考えてみたい。私達が見て感動している夜景を構成している一つ一つの光にはどのようなものがあるのだろうか。道端の街路灯の明かり、会社やマンションの部屋の明かり、駅のホームの明かり、その種類は数え出したら挙げきることはできない。





一例として、その夜景を構成している要素の一つであるマンションの一部屋の明かりに注目してみたい。はたしてその部屋の中では、私達が夜景に感動しているまさにその時、一体何が行われているのだろう、といった風に考えるのはどうだろう。





「お前とはもう一緒になんか居られない!」といって離婚を突きつけ、今にも崩壊しそうな夫婦、不純性行為にいそしむ男女の不倫カップル、自分の存在価値を見失ない自殺行為に及ぼうとしている人、そしてもう既に手遅れでその部屋の中で首を吊って死んでいる人。このような状況が無いと言い切れるだろうか。





だとしたら私たちは実に盲目的かつ利己的な視点でその夜景を眺め、「綺麗だね」と言ってみたり、その場所で記念撮影をしてみたりしている。





その光源では闇がそこにいる人間を覆い苦しめている、にもかかわらず、見方によっては「百万ドルの夜景」などと謳われ、それを眺める人間に感動を与える。





私たち人間である以上、だれでも罪の要素を内側に兼ね備えている。そして、その要素が働く時、人は己の欲望を独り歩きさせ、周囲の人間の心境を無視し、既存の平穏を破壊し、自らが創り出したその闇に引きずり込まれる。





そんな性質を持った私達人間に、イエスキリストは、「起きよ、光を放て。(イザヤ書60:1)と命じ、更に「あなたがたは、世の光である。(マタイによる福音書5:14)と教える。





あなたは世に向かって堂々と自信を持って放てる光を持っていますか? 夜景のように人々の心を動かし、目に見るに麗しく、いつまでも目に焼き付けていたいと人から思われるような生活を過ごしていますか?





私たちがイエスキリストを人間の救い主と信じ、彼と関係を持ち、キリストの光の性質が私たちに流れ込み始める時、私達には、人の心に神様のメッセージを訴えかけるような光を、徐々に、少しづつではあるが、放ち始めることができるようになるのです。そして、その光とは、私達が自ら創り出したものではなく、キリストが放たれている光を私たちが日常のあらゆる瞬間に周囲に反射することです。





私たちがそのことを神様の力によって出来るようになった時、そこにはきっと夜景よりも素晴らしい神の国の絶景が見えるはずです。





わたしたちがイエスから聞いて、あなたがたに伝えるおとずれは、こうである。神は光であって、神には少しの暗いところもない。
神と交わりをしていると言いながら、もし、やみの中を歩いているなら、わたしたちは偽っているのであって、真理を行っているのではない。
しかし、神が光の中にいますように、わたしたちも光の中を歩くならば、わたしたちは互に交わりをもち、そして、御子イエスの血が、すべての罪からわたしたちをきよめるのである。(ヨハネの第一の手紙1章4~7節)

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2013年2月10日日曜日

私にはできません

私には、できません。





私には、聖書に書いてあるように、父と母を敬うことができません。父や母がいなくても生きていけると思ってしまいます。



私には、聖書に書いてあるように、自分を愛するように隣人を愛すことができません。誰よりもまず自分が幸せになりたいからです。



私には、聖書に書いてあるように、心から人に仕えることができません。人に好かれるために良い人を演じています。



私には、聖書に書いてあるように、自分の怒りを神に委ねることができません。相手を何とかして懲らしめて困った顔が見たいと思うからです。



私には、聖書に書いてあるように、人にうそをつかないことはできません。人から興味を持ってもらいたくて、自分を見捨てて欲しくないからです。



私には、聖書に書いてあるように、人のために祈ることができません。「祈ってます」と言って相手に自分のことを覚えていてほしいだけです。



私には、聖書に書いてあること、聖書が守りなさいと言っていることが、何もできません。





今日もまた、聖書に書いてある約束を守ることができませんでした。


最近はちょっと頑張れていたのに、今日どうしても我慢できなくて、聖書が言っていることと逆のことをしてしまいました。


教会に行っているのに、洗礼を受けたのに、クリスチャンになったのに。なんでまだ昔と同じきたないものが出てきてしまうのだろう。


「そんなことをするのが聖書の教えなのか?」 悪魔は私にささやく。


「天のお父様、私の罪を赦してください。」 涙が溢れても溢れても止まらない。「私には聖書に書いてある通りにきよく生きることができません。」








 私には、できません。



私には、イエス様に赦してもらい、慰めてもらうこと以外、何もできません。


昔の自分とは違うことが、ひとつだけあった。





「わたしはあなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈った。それで、あなたが立ち直ったときには、兄弟たちを力づけてやりなさい」 (ルカによる福音書22章32節)



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2013年1月22日火曜日

雪よりも白い人生をあなたに



今月、東京では17年ぶりの大雪に見舞われた。



雪には私達の心をどこかウキウキさせる力があるようで、雪というものには何か「特別感」というものが付随していることが多く、その存在がもてはやされることがある。ホワイトクリスマスという言葉があるように、特別なものに更に希少性を与えるようなことがある。そして雪は子供達の心を浮かれさせ、恋人達のムードをよりロマンチックに仕立て上げる名脇役となる。

今回の雪は成人式当日に降ったこともあり、今年新成人となった若者の中には、「ホワイト成人式」などと題目付け、「雪も私たちを祝ってくれているんだと思います。」という言葉をニュースの報道記者に伝えている。少なくともその存在が厄介がられている様子は無く、むしろその空からの白い贈り物を喜んでいる。


しかし、雪の日の翌日になると、その白い贈り物に対する人間の態度は豹変する。それはもはや存在しているだけで邪魔者扱いを受け、道の脇に除けられその存在が一日も早く消えてなくなるのを待たれるばかり。ニュースでは雪による路面の凍結に対する注意が呼びかけられ、一夜にして人を傷つける厄介な悪魔の如く扱いを受ける。




その純白の妖精はみるみるうちにその美しさを喪失し、どんどん黒ずみ罪深さを増してくる。中には数日間人間からの冷ややかな目に耐え、土で真っ黒になりながらも道端にしぶとく生きながらえているものもいるが、それらも「なんだ。まだいたの?」と言われんばかりにダメ押しを受け、人知れず消え、その数日間の地上での生涯を終える。


雲の上に留まっていればこんな惨い扱いとは無縁だったにも関わらず、ただ地上に降りてきてしまったがために、その辛い生涯を歩まざるをえなくなってしまった。


今、雪のその儚すぎる生涯を想う。

しかし、神がみた人間の生涯もこの雪とさほど変わらないのではないか。


私たちのその儚すぎる人生には、様々な場面がある。誕生日しかり、卒業式しかり、成人式しかり、結婚式しかり。私たちはその時、今までこの地上で送ってきた自らの歩みを振り返り、その充実度を自己評価し、「あの時は人生うまくいっていたなぁ」だとか言って満足感に浸ってみたり、「あの時にこうしておけば今はもっと幸せだったろうに」だとか、無駄な修正を試みたりする。そして、これからまだしばらくの間続くであろうこの地上での歩みをいかにすれば、自分の周囲の人よりも一段上の幸せを、そして自分の思い描いていた通りの将来を実現できるかという実に都合の良いシナリオを心の中に構築してみる。「あの人よりは絶対に幸せな人生を送りたい」と、誰でも口に出さずとも心の中に思ったことがあるのではないか。


しかし、人生は恥をかくことに他ならない、劣等感を抱くことに他ならない、そして、人生とは他人に迷惑をかけることに他ならない。


神の子イエスキリストと共に旅するという素晴らしい充実した時を過ごし、伝道に人生を捧げ、最期には殉教の死をとげるという「濃い」人生を送ったペテロは、さぞその人生を長く感じただろうと私たちは想像するが、本人曰く「愛する者たちよ。この一事を忘れてはならない。主にあっては、一日は千年のようであり、千年は一日のようである。(ペテロの第二の手紙3:8)だという。


私たちなりにたくさんの場面がある人生も、神がご覧になったらそれは数日で儚く消えてなくなる雪の如くに過ぎない。私たちが地上に生まれ、そして死んでいくのは、神にとっては、「風は南に吹き、また転じて、北に向かい、めぐりにめぐって、またそのめぐる所に帰る(伝道の書1:6)くらい意識もしない程のごく日常な風景に過ぎないのであろうと思います。


しかし、ここで終わらないのが、冷酷な人間には決して真似できない、憐れみに溢れる真実の神の感性が滲み出る瞬間であろうと思います。


土で黒ずんだ雪の、声にならない嘆きに耳を傾けて下さる神がいるのです。

誰が私のような恥や醜さで真っ黒になってしまった人間に目を留めてくださるでしょうか。そこに存在しているだけで迷惑がられていた人に、神は新しい命を与え、再びその存在が人から待ち遠しく喜ばれるものにしてくださるのです。そして私達はもはや道端の残雪の如くただ消えるのを待つだけの生涯ではなく、その存在を喜ばれる者として永遠に生きていくことができるようになるのです。


日照りと熱さは雪水を奪い去る、陰府が罪を犯した者に対するも、これと同様だ。町の広場は彼らを忘れ、彼らの名は覚えられることなく、不義は木の折られるように折られる』と。----- しかし神はその力をもって、強い人々を生きながらえさせられる。彼らは生きる望みのない時にも起きあがる。(ヨブ記24:19)

Yuma Nakagawa