今月、東京では17年ぶりの大雪に見舞われた。
雪には私達の心をどこかウキウキさせる力があるようで、雪というものには何か「特別感」というものが付随していることが多く、その存在がもてはやされることがある。ホワイトクリスマスという言葉があるように、特別なものに更に希少性を与えるようなことがある。そして雪は子供達の心を浮かれさせ、恋人達のムードをよりロマンチックに仕立て上げる名脇役となる。
今回の雪は成人式当日に降ったこともあり、今年新成人となった若者の中には、「ホワイト成人式」などと題目付け、「雪も私たちを祝ってくれているんだと思います。」という言葉をニュースの報道記者に伝えている。少なくともその存在が厄介がられている様子は無く、むしろその空からの白い贈り物を喜んでいる。
しかし、雪の日の翌日になると、その白い贈り物に対する人間の態度は豹変する。それはもはや存在しているだけで邪魔者扱いを受け、道の脇に除けられその存在が一日も早く消えてなくなるのを待たれるばかり。ニュースでは雪による路面の凍結に対する注意が呼びかけられ、一夜にして人を傷つける厄介な悪魔の如く扱いを受ける。
その純白の妖精はみるみるうちにその美しさを喪失し、どんどん黒ずみ、罪深さを増してくる。中には数日間人間からの冷ややかな目に耐え、土で真っ黒になりながらも道端にしぶとく生きながらえているものもいるが、それらも「なんだ。まだいたの?」と言われんばかりにダメ押しを受け、人知れず消え、その数日間の地上での生涯を終える。
雲の上に留まっていればこんな惨い扱いとは無縁だったにも関わらず、ただ地上に降りてきてしまったがために、その辛い生涯を歩まざるをえなくなってしまった。
今、雪のその儚すぎる生涯を想う。
しかし、神がみた人間の生涯もこの雪とさほど変わらないのではないか。
私たちのその儚すぎる人生には、様々な場面がある。誕生日しかり、卒業式しかり、成人式しかり、結婚式しかり。私たちはその時、今までこの地上で送ってきた自らの歩みを振り返り、その充実度を自己評価し、「あの時は人生うまくいっていたなぁ」だとか言って満足感に浸ってみたり、「あの時にこうしておけば今はもっと幸せだったろうに」だとか、無駄な修正を試みたりする。そして、これからまだしばらくの間続くであろうこの地上での歩みをいかにすれば、自分の周囲の人よりも一段上の幸せを、そして自分の思い描いていた通りの将来を実現できるかという実に都合の良いシナリオを心の中に構築してみる。「あの人よりは絶対に幸せな人生を送りたい」と、誰でも口に出さずとも心の中に思ったことがあるのではないか。
しかし、人生は恥をかくことに他ならない、劣等感を抱くことに他ならない、そして、人生とは他人に迷惑をかけることに他ならない。
神の子イエスキリストと共に旅するという素晴らしい充実した時を過ごし、伝道に人生を捧げ、最期には殉教の死をとげるという「濃い」人生を送ったペテロは、さぞその人生を長く感じただろうと私たちは想像するが、本人曰く「愛する者たちよ。この一事を忘れてはならない。主にあっては、一日は千年のようであり、千年は一日のようである。」(ペテロの第二の手紙3:8)だという。
私たちなりにたくさんの場面がある人生も、神がご覧になったらそれは数日で儚く消えてなくなる雪の如くに過ぎない。私たちが地上に生まれ、そして死んでいくのは、神にとっては、「風は南に吹き、また転じて、北に向かい、めぐりにめぐって、またそのめぐる所に帰る」(伝道の書1:6)くらい意識もしない程のごく日常な風景に過ぎないのであろうと思います。
しかし、ここで終わらないのが、冷酷な人間には決して真似できない、憐れみに溢れる真実の神の感性が滲み出る瞬間であろうと思います。
土で黒ずんだ雪の、声にならない嘆きに耳を傾けて下さる神がいるのです。
誰が私のような恥や醜さで真っ黒になってしまった人間に目を留めてくださるでしょうか。そこに存在しているだけで迷惑がられていた人に、神は新しい命を与え、再びその存在が人から待ち遠しく喜ばれるものにしてくださるのです。そして私達はもはや道端の残雪の如くただ消えるのを待つだけの生涯ではなく、その存在を喜ばれる者として永遠に生きていくことができるようになるのです。
「日照りと熱さは雪水を奪い去る、陰府が罪を犯した者に対するも、これと同様だ。町の広場は彼らを忘れ、彼らの名は覚えられることなく、不義は木の折られるように折られる』と。----- しかし神はその力をもって、強い人々を生きながらえさせられる。彼らは生きる望みのない時にも起きあがる。」(ヨブ記24:19)
Yuma Nakagawa
Yuma Nakagawa