2013年2月11日月曜日

絶景をつくろう



昨年開業を向かえ、東京の一番新しい観光名所として名を馳せている東京スカイツリー。開業当初は展望台に上るために抽選に当たらなければいけない程の人気振りを見せた。 





日本一高い人工建造物から眺める景色とは一体どれほどのものなのだろう。きっと夜には息を呑むような夜景が広がるのだろう。





おそらく多くの人がその景色に感動をおぼえ、写真を撮って友人に見せてみたり、ムードが高まって恋人との距離がより近くなったり、その景色を前にして人々は色々なことをする。





しかし今、このことをよく考えてみたい。私達が見て感動している夜景を構成している一つ一つの光にはどのようなものがあるのだろうか。道端の街路灯の明かり、会社やマンションの部屋の明かり、駅のホームの明かり、その種類は数え出したら挙げきることはできない。





一例として、その夜景を構成している要素の一つであるマンションの一部屋の明かりに注目してみたい。はたしてその部屋の中では、私達が夜景に感動しているまさにその時、一体何が行われているのだろう、といった風に考えるのはどうだろう。





「お前とはもう一緒になんか居られない!」といって離婚を突きつけ、今にも崩壊しそうな夫婦、不純性行為にいそしむ男女の不倫カップル、自分の存在価値を見失ない自殺行為に及ぼうとしている人、そしてもう既に手遅れでその部屋の中で首を吊って死んでいる人。このような状況が無いと言い切れるだろうか。





だとしたら私たちは実に盲目的かつ利己的な視点でその夜景を眺め、「綺麗だね」と言ってみたり、その場所で記念撮影をしてみたりしている。





その光源では闇がそこにいる人間を覆い苦しめている、にもかかわらず、見方によっては「百万ドルの夜景」などと謳われ、それを眺める人間に感動を与える。





私たち人間である以上、だれでも罪の要素を内側に兼ね備えている。そして、その要素が働く時、人は己の欲望を独り歩きさせ、周囲の人間の心境を無視し、既存の平穏を破壊し、自らが創り出したその闇に引きずり込まれる。





そんな性質を持った私達人間に、イエスキリストは、「起きよ、光を放て。(イザヤ書60:1)と命じ、更に「あなたがたは、世の光である。(マタイによる福音書5:14)と教える。





あなたは世に向かって堂々と自信を持って放てる光を持っていますか? 夜景のように人々の心を動かし、目に見るに麗しく、いつまでも目に焼き付けていたいと人から思われるような生活を過ごしていますか?





私たちがイエスキリストを人間の救い主と信じ、彼と関係を持ち、キリストの光の性質が私たちに流れ込み始める時、私達には、人の心に神様のメッセージを訴えかけるような光を、徐々に、少しづつではあるが、放ち始めることができるようになるのです。そして、その光とは、私達が自ら創り出したものではなく、キリストが放たれている光を私たちが日常のあらゆる瞬間に周囲に反射することです。





私たちがそのことを神様の力によって出来るようになった時、そこにはきっと夜景よりも素晴らしい神の国の絶景が見えるはずです。





わたしたちがイエスから聞いて、あなたがたに伝えるおとずれは、こうである。神は光であって、神には少しの暗いところもない。
神と交わりをしていると言いながら、もし、やみの中を歩いているなら、わたしたちは偽っているのであって、真理を行っているのではない。
しかし、神が光の中にいますように、わたしたちも光の中を歩くならば、わたしたちは互に交わりをもち、そして、御子イエスの血が、すべての罪からわたしたちをきよめるのである。(ヨハネの第一の手紙1章4~7節)

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