2013年2月10日日曜日

私にはできません

私には、できません。





私には、聖書に書いてあるように、父と母を敬うことができません。父や母がいなくても生きていけると思ってしまいます。



私には、聖書に書いてあるように、自分を愛するように隣人を愛すことができません。誰よりもまず自分が幸せになりたいからです。



私には、聖書に書いてあるように、心から人に仕えることができません。人に好かれるために良い人を演じています。



私には、聖書に書いてあるように、自分の怒りを神に委ねることができません。相手を何とかして懲らしめて困った顔が見たいと思うからです。



私には、聖書に書いてあるように、人にうそをつかないことはできません。人から興味を持ってもらいたくて、自分を見捨てて欲しくないからです。



私には、聖書に書いてあるように、人のために祈ることができません。「祈ってます」と言って相手に自分のことを覚えていてほしいだけです。



私には、聖書に書いてあること、聖書が守りなさいと言っていることが、何もできません。





今日もまた、聖書に書いてある約束を守ることができませんでした。


最近はちょっと頑張れていたのに、今日どうしても我慢できなくて、聖書が言っていることと逆のことをしてしまいました。


教会に行っているのに、洗礼を受けたのに、クリスチャンになったのに。なんでまだ昔と同じきたないものが出てきてしまうのだろう。


「そんなことをするのが聖書の教えなのか?」 悪魔は私にささやく。


「天のお父様、私の罪を赦してください。」 涙が溢れても溢れても止まらない。「私には聖書に書いてある通りにきよく生きることができません。」








 私には、できません。



私には、イエス様に赦してもらい、慰めてもらうこと以外、何もできません。


昔の自分とは違うことが、ひとつだけあった。





「わたしはあなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈った。それで、あなたが立ち直ったときには、兄弟たちを力づけてやりなさい」 (ルカによる福音書22章32節)



Image by amanaimages





2013年1月22日火曜日

雪よりも白い人生をあなたに



今月、東京では17年ぶりの大雪に見舞われた。



雪には私達の心をどこかウキウキさせる力があるようで、雪というものには何か「特別感」というものが付随していることが多く、その存在がもてはやされることがある。ホワイトクリスマスという言葉があるように、特別なものに更に希少性を与えるようなことがある。そして雪は子供達の心を浮かれさせ、恋人達のムードをよりロマンチックに仕立て上げる名脇役となる。

今回の雪は成人式当日に降ったこともあり、今年新成人となった若者の中には、「ホワイト成人式」などと題目付け、「雪も私たちを祝ってくれているんだと思います。」という言葉をニュースの報道記者に伝えている。少なくともその存在が厄介がられている様子は無く、むしろその空からの白い贈り物を喜んでいる。


しかし、雪の日の翌日になると、その白い贈り物に対する人間の態度は豹変する。それはもはや存在しているだけで邪魔者扱いを受け、道の脇に除けられその存在が一日も早く消えてなくなるのを待たれるばかり。ニュースでは雪による路面の凍結に対する注意が呼びかけられ、一夜にして人を傷つける厄介な悪魔の如く扱いを受ける。




その純白の妖精はみるみるうちにその美しさを喪失し、どんどん黒ずみ、罪深さを増してくる。中には数日間人間からの冷ややかな目に耐え、土で真っ黒になりながらも道端にしぶとく生きながらえているものもいるが、それらも「なんだ。まだいたの?」と言われんばかりにダメ押しを受け、人知れず消え、その数日間の地上での生涯を終える。


雲の上に留まっていればこんな惨い扱いとは無縁だったにも関わらず、ただ地上に降りてきてしまったがために、その辛い生涯を歩まざるをえなくなってしまった。


今、雪のその儚すぎる生涯を想う。

しかし、神がみた人間の生涯もこの雪とさほど変わらないのではないか。


私たちのその儚すぎる人生には、様々な場面がある。誕生日しかり、卒業式しかり、成人式しかり、結婚式しかり。私たちはその時、今までこの地上で送ってきた自らの歩みを振り返り、その充実度を自己評価し、「あの時は人生うまくいっていたなぁ」だとか言って満足感に浸ってみたり、「あの時にこうしておけば今はもっと幸せだったろうに」だとか、無駄な修正を試みたりする。そして、これからまだしばらくの間続くであろうこの地上での歩みをいかにすれば、自分の周囲の人よりも一段上の幸せを、そして自分の思い描いていた通りの将来を実現できるかという実に都合の良いシナリオを心の中に構築してみる。「あの人よりは絶対に幸せな人生を送りたい」と、誰でも口に出さずとも心の中に思ったことがあるのではないか。


しかし、人生は恥をかくことに他ならない、劣等感を抱くことに他ならない、そして、人生とは他人に迷惑をかけることに他ならない。


神の子イエスキリストと共に旅するという素晴らしい充実した時を過ごし、伝道に人生を捧げ、最期には殉教の死をとげるという「濃い」人生を送ったペテロは、さぞその人生を長く感じただろうと私たちは想像するが、本人曰く「愛する者たちよ。この一事を忘れてはならない。主にあっては、一日は千年のようであり、千年は一日のようである。」(ペテロの第二の手紙3:8)だという。


私たちなりにたくさんの場面がある人生も、神がご覧になったらそれは数日で儚く消えてなくなる雪の如くに過ぎない。私たちが地上に生まれ、そして死んでいくのは、神にとっては、「風は南に吹き、また転じて、北に向かい、めぐりにめぐって、またそのめぐる所に帰る」(伝道の書1:6)くらい意識もしない程のごく日常な風景に過ぎないのであろうと思います。


しかし、ここで終わらないのが、冷酷な人間には決して真似できない、憐れみに溢れる真実の神の感性が滲み出る瞬間であろうと思います。


土で黒ずんだ雪の、声にならない嘆きに耳を傾けて下さる神がいるのです。

誰が私のような恥や醜さで真っ黒になってしまった人間に目を留めてくださるでしょうか。そこに存在しているだけで迷惑がられていた人に、神は新しい命を与え、再びその存在が人から待ち遠しく喜ばれるものにしてくださるのです。そして私達はもはや道端の残雪の如くただ消えるのを待つだけの生涯ではなく、その存在を喜ばれる者として永遠に生きていくことができるようになるのです。


「日照りと熱さは雪水を奪い去る、陰府が罪を犯した者に対するも、これと同様だ。町の広場は彼らを忘れ、彼らの名は覚えられることなく、不義は木の折られるように折られる』と。----- しかし神はその力をもって、強い人々を生きながらえさせられる。彼らは生きる望みのない時にも起きあがる。」(ヨブ記24:19)

Yuma Nakagawa

2012年12月11日火曜日

券売機と天国

質問です。



駅で切符の券売機の使い方が分からなくて困っている人がいます。

あなたは、

1.その人に切符を買ってあげますか?

2.券売機の使い方をその人に教えてあげますか?



↓






























1の「その人に切符を買ってあげる」を選んだあなた、
残念ですが、あなたのせいでその人は貴重な時間をムダに捨ててしまうかもしれません。



もし本当にその人のためを思っているなら、次からはその人が自分で切符を買えるように「券売機の使い方を教えてあげる」はずです。
もし「切符を買ってあげた」なら、その人はその日はあなたの親切のおかげで予定の電車に乗れたことでしょう。
しかし次の日になったら、また切符の買い方が分からずに立ち往生してしまいます。切符の買い方を教えてくれる人がいないので、予定の電車に乗り遅れてしまいました。









このように、「してあげる」と「出来るように教えてあげる」とでは、同じ親切、同じ愛でも、全く違う結果をもたらします。




「切符を買ってあげる」よりも、「切符の買い方を教えてあげる」べきです。 いずれ日本で信仰生活を守っていかなければならない信徒を派遣する海外日本人教会なら、なおさら考えるべき当然の課題です。








キリストは、「私は道である」とピリポに言った。キリストは、「私は”動く歩道”である。そしてあなたが足を動かさなくてもいいようにしてあげよう」とは言っていないはずだ。




「洗礼も受けたし、どうせ天国にはもう行けるから。。。。。」




キリストは、天国街道を開通してくれました。
そして、 キリストは、あなたに天国への道案内はもう十分した、あなたは絶対に道に迷う心配はない、と言っています。
さぁ、あなたは自分の足で人生の風景を目に焼き付け楽しみながら歩きますか? それともまだ。。。









今わたしは、そのことが起らない先にあなたがたに語った。それは、事が起った時にあなたがたが信じるためである。わたしはもはや、あなたがたに、多くを語るまい。この世の君が来るからである。だが、彼はわたしに対して、なんの力もない。しかし、わたしが父を愛していることを世が知るように、わたしは父がお命じになったとおりのことを行うのである。立て。さあ、ここから出かけて行こう。
ヨハネの福音書14章






by Yuma Nakagawa

2012年12月4日火曜日

新しい地

こんにちは。


今日は僕が新しく導かれた教会、日本ホーリネス教団新井教会を紹介します。


JR中央線または東京メトロ東西線の中野駅北口から徒歩15分の場所に新井教会はあります。



右側が礼拝堂のある建物、左側は新しく出来た、食事などをするシャローム館です。

牧師は東京聖書学院の副院長です。




礼拝は招詞から始まり、新聖歌を開きながら賛美する日本の教会ではよく見られるスタイルです。
  

ハワイのように、手をあげながら元気に賛美したり、ハグしながら挨拶を交わすような光景はここではまず見られません。しかし、教会員の全員が真面目に神様を追求する姿勢は負けずとも劣りません。日本にいるクリスチャンは一人ひとりが信仰の根が強い、たくましい人達ばかりです。
 

自分も2年半前、初めて日本において半年弱生活したときに、日本の教会の雰囲気の違いに順応するのに頑張りました。閉塞感のある会堂は最初はあまり居心地が良くないかもしれません。とりわけハワイのような土地から日本の教会に来ると、ハワイの教会員の独特な暖かさを懐かしく思うかもしれません。



 しかも特に日本でははっきり言って日曜日に教会に行かなくても一日を終えられるだけの娯楽とオプションがそろっています。自分の気付かないうちに、「あれ、そういえば最後に日曜日に礼拝に行ったのはいつだったっけ。」なんてこともありえるかもしれません。



日本に帰ってきた後も信仰生活を続けるには、それなりの心構え、そして神様と自分との土台関係の信仰が絶対条件です。この国で自分の信仰を守ってくれる保障はどこにもありません。帰国者の80%が帰国後数年以内に信仰から離れてしまうデータはダテではありません。


しかし、「世界で一番福音が響きにくい国に使わされている祝福」が分かれば、その人は大丈夫です。国は違えど、信仰はひとつです。あなたがキリストにつながっていたいと望むなら、間違いなく神様は新しい地をあなたのために用意し、その場所を祝福してくれます。






同じ教会はこの世にひとつとしてありません。違う教会に行けば、そこには違う礼拝スタイル、違う習慣、違う教会員、違う考え方、全てが今まで慣れ親しんできた場所とは違います。


初めは、自分には合わないと思った教会でも、神様が自分のためにこの教会を選んでくださったと思えれば、必ずその教会に対して愛着がその人の心の中に湧いてくるはずです。



話は戻って、この日はちょうど地域の子供たちを招いてのクレープ祭りでした。事前に周辺の小学校などにチラシを配ってあったみたいですよ。

今年は年に5回このような子供向けプログラムを開き、各回5,60人くらい集まっていたみたいです。



今回は30人くらいだったでしょうか。それでも素晴らしい伝道ですね。しかも以前のイベントにも来たことのあるリピーターの子達が一人で教会に出掛けてきてくれるのです。

大人のスタッフだけではなく、新井教会の子供たちも自ら積極的にイベントの運営に参加している風景に感慨を覚えました。
若干小学校低学年の子達でも、次のプログラムのことを予測して、何か足りないものはないか、どうしたら教会に足を運んでくれた子達にもてなすことが出来るかをちゃんと考えています。
「あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。(マタイ5:16)」という聖書の言葉を自然に実行できています。



そして、クレープ作りです。
この写真は新井教会シャローム館の内側です。コンクリート打ちっぱなしの内装が逆に今時のオシャレカフェのようなデザインとなっています。

クレープの生地は前日に教会の皆さんが150枚を一枚一枚手作りしたみたいですよ。 

最後に来てくれた子供たちが元気に、今日はありがとうございました!、と言ってお辞儀をしてから走って帰っていく様子が印象的でした。

「直接イエスキリストについて話は出来なくてもいい。まずは教会が来る意味のある場所だと言うことを知ってほしい。」という教会の人達の思いが確実に子供達に伝わっているのを感じました。

将来この子供たちが教会に来てくれる保証などは無いけれど、「わたしたちは、善を行うことに、うみ疲れてはならない。たゆまないでいると、時が来れば刈り取るようになる。(ガラテヤ6:9)」という御言葉を思い起こさせる一日となりました。


日本の教会の働きもハワイやアメリカに全然引けを取っていませんよ。



by Yuma Nakagawa














2012年11月20日火曜日

握手会



日本からの投稿です。

某国民的アイドルの握手会。
見ていると目が回るほどに集まった何万人ものファン。
推しているメンバーの名前が大きく書かれたTシャツをきている人、メンバーがテレビで身につけていたのと同じグッズを身につけている人、着ぐるみを着ている人、しきりに手鏡で前髪を確認している人。
皆思い思いの格好、装飾、グッズを身につけて、何とかして自分が推しているアイドルに自分がどれだけ好きかをアピールしようと、また覚えてもらおうと必死だ。

実際に参加して思ったのは、確かにどの人もオーディションをくぐり抜けてきただけあって目の輝き、そしていわゆる「可愛さ」といったものは持ち合わせているように思える。しかし、別に特別スタイルが良く、オーラがある訳でもない。他の人間といたって一緒だ。これくらいの人なら街で見かけないわけでもない。

一つの想いが頭の中をよぎった。
「人間でさえこれだけの数の人を集められるのなら、神に出来ないことがあろうか。」

なぜ神はこのように目が回るほどに集まった人間を教会にも送って下さらないのか。
人間に、しかも若干20歳前後の少女が何万人もの人を集めることが出来るのに、全知全能の神に同じことが出来ないことがあろうか。

このことを神に尋ねた。すると返ってきた答えはこうである。

「あなたはこの人たちが一人のアイドルを推し、アピールし、愛するように、神である私を今まで愛したことがあるか。」

その時に自分の信仰を恥じた。

何万人もいるファンの中の1人である自分のことなんて覚えてくれる保証も無い、いつまでも続かない栄光のためには、一生懸命テレビやインターネットで調べて、たった5秒足らずの触れ合いのために何時間も並んで、なんとかして自分の思いを伝えようと奮闘出来るにも関わらず、全世界の主であるのに私を見つけ出し、私のことを愛し、私のために永遠にそばにいてくださる神である方には、たいして愛を示さない。

あの日、集まっていた何万人ものファンが、神に救われる日はくるのだろうか。

舞台上に立った憧れのアイドルに今、一生懸命手を振っているように、手を挙げて神を賛美する日は来るのだろうか。

ファンは何を求めて握手会に集うのか。愛か。ステータスか。思い出か。欲を満たすためか。それはまだ解らない。しかし、いずれにせよ、神が、このような聖さとはほど遠いような場所においても確かに目を留めておられることが分かっただけで、何かの手だてにはなったはずだ。そのように思いたい。

2012年11月14日水曜日

10/27 ピリピ人への手紙 -Kailua-

**でぃさいぽーズ in KAILUA**



KAILUAでバイブルスタディー
たまには遠出して勉強するのも
気持ちがいいです**


 
 
ピリピ人への手紙
-喜びの手紙-
 
この手紙はパウロが獄中所管に居た頃に、
パウロが初めて建てた教会宛の手紙です。
 
 
 
 
    一章(20-25)『生きるにしても死ぬにしても』

 

どうして自分達はこの世界で生きているのか?考えたことはありますか?
人間には一人一人、何かと ”使命” という物が与えられているんです。
 
皆さんは自分の使命が何かもう知っていますか?
見つけるのは難しいです。自分もまだはっきりしないですね。
でも、祈って相談しながら コレだというものを探していきましょう。
 
“私(パウロ)にとって、生きることはキリスト、死ぬことも益です。
この命が続くとしたら私の働きが豊かな実を結ぶ
この世を去ってキリストのそばにいることほど願わしいことはない”
 
(27-29)
「キリストの福音にふさわしく生活しなさい」
これは ゜神の国の市民として生きない” という事ですね。
神の国のlife styleはどんな生活なんでしょうか?
愛に溢れてる?自由の生活?平安?
 
 
 
 
    二章『キリストを見習いなさい』
 
(12-16)
神様の導きがあるから自分は何もしなくてもいい。。。神様がなんとかしてくれる!
なんて思っていませんか?
それは間違いです。『自分の救いの達成に努めなさい』とパウロは言ってます。
 
でもパウロは前に、”自分ひとりで努力しないで神様を頼りなさい”と言っていましたし、
もう十字架につけられて自分達は救われているはずです。
 
それは、
『救い』のプレゼントを用意したのは神様だけどそれを受け取るかはあなた次第なんです。
そして実行するのがあなたの仕事です。でも神様に助けを求めたら助けてくれます。
 
    
 
 
 
 
  三章 『目標を目指して努力する』
 
(7)  目標に近づくために捨てなければいけない物なんてありましたか?
  パウロは価値のあるものを捨ててキリストだけを信頼してにその望みをかけました。
 
(12-14) 自分達のゴールは天国です。
神様はそのゴールに到達できるように私達を天へ召して(招待)してくれました。
天国へ十字架で橋をかけてくれました、わたるのはあなたです。
 
(20) 私達の国籍は天国です。イエス・キリストは私達が来るのを待っています。
つまり自分達は旅行中なわけです。
 
 
 
 
 
 
   四章『主にあって喜びなさい』
 
(4) 「いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。」
 
どのような時でも喜んでいるましょう。
 
ここで思い違えやすいのが、『どのような時でも』
これは、苦しいときや悲しい時でも喜んでいなさい という意味ではありません。
 
どんな状況でも神様と居れる事、生きれる事を感謝しなさい という意味です。
 
(6)
「何事も心配しないで、どんな時でも神に祈りなさい。そして、祈りに答えてくださる
神に感謝しましょう。」
 
(19)
「神は、キリスト・イエスが成し遂げてくださったことによるご自身の栄光の富の中から、
あなたがたに必要なものをすべて満たしてくださる方です。」
 
 
用意は神様、実行は自分
importantですね。
 
 


 
 
 
*今回はYUMA君最後のリードでした
いままでありがとうございました*
 

2012年11月7日水曜日

ディサイポーズバス旅行シリーズ全3回まとめ

第一弾 ノースショア&サークルアイランド編
(Wahiawa - Waialua - Haleiwa - Turtle Bay Resort - Kaneohe)




第二弾 オアフ島西海岸編
(Makaha Beach - Aulani Disney Resort - Kapolei)




第三弾 カイルア&ウィンドワードエリア編
(Maunawili Waterfalls Trail - Kailua Town)





わたしたちの旅は終わらない。。。